高校時代~大学時代

僕は高校は通信制高校に進学し、高校1年生の途中で埼玉県の与野に引っ越した。高校時代はいじめられることはなく、比較的平穏に過ごすことができた。高校の時にほとんど話さない場面緘黙っぽい男の子が1人いた。本当にその子が場面緘黙だったかどうかはわからないが、返事の声しか聞いたことがなかったので、おそらくそうだったのではないかと僕は思っている。僕は高校3年間で全く話すことができなかった。

 

高校1年生の時に、本郷東大前こころのクリニックに転医したが、医師と会わずに通院中断した。その後、高校2年生の時に東京大学医学部附属病院に移り、カウンセリングも交えて通院した。

 

高校卒業後、僕は興味のあった動物の勉強がしたいと考え、動物学を学べる学科がある大学に進学した。大学の健康診断の時に身長や体重などの結果を記録する紙に、配慮してほしいことはありますか?というような文言が書かれてあったので、そこに場面緘黙のことを書いて提出したら、健康診断の会場にいたそこの大学の学生相談室の相談員のもとに案内されたので、その相談員の方としばらく面談した(話せなかったので僕は筆談で面談した)。そして、面談室の予約を取ることができ、週1回相談員の方とカウンセリングをすることになった。相談員の方には大学の先生や職員に僕の障害のことについて説明をしていただけて、本当にお世話になった。

 

話せないとなると困ったのが、大学の卒研発表会の時である。そのことについて研究室の教授に相談したら、「家で声を録音してそれを発表会の時に流すか音声読み上げソフトを使うという方法があるが、どうする?できれば家で録音してそれを流すほうがいいと思うが」というようなことを言われたので、家で声を録音してそれを発表会の時に流すほうを僕は選択した。発表会当日は、家でスマホを使って録音した声を音声を増幅させる機械を使って流しながら、事前に作成しておいたプレゼン資料を聴衆に見せるという方法で卒研発表を行った。発表は見事最後までやり遂げることができた。そして、無事留年することなく、4年で卒業することができた。

 

 

中学校時代

中学校は家の近くの公立中学校に通ったのだが、そこでもまた僕はいじめられてしまった。過度なストレスによる体調不良が続き、しだいに学校を休みがちになり、中学2年生の時についに不登校になってしまった。

 

不登校になると毎日1日中ゲームするようになった。というか何もやる気が起きず、ゲームしかできないようになってしまったというほうが正確かもしれない。

 

そんな時、父が図書館から手塚治虫ブッダという漫画を借りてきて、それを読んでみた。それまで僕はお釈迦様の名前は知っていたが、具体的にどういう人生を送った人なのかまるで知らなかった。僕はこの漫画を夢中になって読んだ。そして仏教のことをもっと知りたいと思うようになった。

 

中2の途中で埼玉県の川口市に引っ越すことになり、南浦和駅の近くのフリースクールに通うことになったのだが、話すことを強要されたため、通うのをやめた。その後、家の近くの公立中学校の相談室に通うようになった。しばらく通った後、そこの相談員の人に本を音読するというのに挑戦して、その日に声を出して本を読めるようになった。

 

スクールカウンセラーの紹介で、中2の頃から東京医科大学病院小児科に通院するようになった。そこでアスペルガー症候群に関する資料を渡されて、それを読んでみたら

(これまんま自分のことじゃん)と思った。僕は小さい頃から親に自分の興味のあることを一方的にしゃべり続けたり、服を着る順番にこだわりがあったり(今日はこのシャツで明日はこのシャツでという感じ)したのだが、なぜ自分がほかの子と違ってそういう傾向にあるのかがわかって、正直ほっとしたのを覚えている。

小学校時代②

小学4年生になるときに父の仕事の関係で今度は福岡に行くことになった。4年生の時は担任の男の先生がいじめは絶対に許さないという感じの先生だったので、いじめられることはなかった。

 

4年生から僕はきこえとことばの教室という通級指導教室に週1回通っていた(4年生の時に通っていた小学校は通級が設置されている小学校だった)。通級指導教室とは、障害のある子たちが障害の特性に合わせた指導や訓練をしてくれる教室のことだ。そこでカズーという声を出さないと吹けない楽器で声を出す練習をした。それで声を出せるようになったので、今度はカズーを使ってしゃべる練習をしたところ、しゃべれるようになった。やがて、カズーなしでも通級の先生と少ししゃべれるようにまでなった。

 

5年生になって担任の先生が変わると、またいじめられてしまい、6年生までそれは続いた。

 

このころから、テレビの自然番組を見たことがきっかけで突然動物に興味を持つようになり、動物関係の本を読むのに夢中になった。そして、将来は生物学者になりたいと思っていた。

小学校時代①

小学1年生の時は、学校での出欠確認で「はい!」と返事をすることはできていた。

 

僕は小学1年生の時に都立梅ヶ丘病院に受診したのだが、そこで場面緘黙と診断された。

 

僕はそのころ神奈川県の相模原に住んでいたのだが、1年生の途中で急遽父の仕事の関係で韓国のソウルに行くことになった。ソウルにある日本人学校に通うことになったのだが、そこで僕はいじめられてしまった。トイレで殴られたり、蹴られたりしたせいでトイレに行くのが怖くなって行けなくなってしまい、そのころはよくお漏らしをしてしまっていた。その後、いじめが見つかって、そのいじめをしていた子は物凄く怒られたらしく、それ以降はその子からいじめられることはなくなった。

 

2年生なると今度は別の子にいじめられることになってしまった。体をつねられたり、「殺すぞ」と脅されたりした記憶がある。3年生の途中まで日本人学校にいたのだが、それまでいじめにひたすら耐える日々だった。

 

3年生の途中で日本に帰国して、小田急相模原駅の近くに引っ越し、近くの小学校に通ったのだが、そこでもまたいじめられてしまった。それと、このころはよく忘れ物をしていたのだが、担任が3回忘れ物をしたら頭にげんこつしてくる女の先生で、僕はしょっちゅう殴られていた。

 

今考えると僕はADHDの不注意優勢型の傾向もあるのかもしれないと思っている。その理由として忘れ物の件もあるが、空想にふけるのに夢中になって人の話を聞いてなかったり、知的好奇心は旺盛だが飽きっぽくて物事を継続できなかったり、聞いたことをすぐ忘れてしまって全然メモを取るということができなかったりするからだ(今では忘れ物がないかどうか出かける前に何度も確認することによって忘れ物をすることはかなり減っている)。

 

 

 

 

幼少期

場面緘黙になったきっかけはよく覚えていない。だが、母の話によると小さいころ外でほかの子と遊ぶのを嫌がっていたようだ。そこで父が発達が遅れている子たちが通う教室を見つけてきて、幼稚園に入る前にそこに僕は通っていたそうだ。母に当時のことを記録したノートを見せてもらったのだが、身長や体重、言葉などが同じ年頃の子と比べて発達が遅れていたようだ。

 

その教室には10人くらいの子供がいたようだ。そこに通っていくうちにだんだんと楽しく遊べるようになっていったようで、その教室の保健師に話しかけられたときはしっかりと答えることができるようになったようだ。

 

しかし、幼稚園に入ると話せなくなってしまった。おそらく、幼稚園では子供の数が30人くらいいたので恐怖や不安が強くなってしまって話せなくなってしまったのだと思う(ただし、挨拶をしないと幼稚園のバスに乗せてくれなかったので挨拶することはできた)。

 

小さい頃は電車が好きで、電車のことを知るのに熱中し、将来の夢は電車の運転手だった。

 

場面緘黙とは?

場面緘黙とは、家では家族と普通に話せるのに、特定の場面(学校や職場など)では強い不安や緊張で話すことができなくなってしまう症状が1か月以上続いた状態を指す。では、なぜ特定の場面で強い不安や緊張を感じてしまうのだろうか?

 

その原因として、脳の扁桃体という部位が関係していると言われている。扁桃体は恐怖や不安をつかさどる部位なのだが、場面緘黙の人は特定の場面にさらされるとこの扁桃体が過剰に反応してしまうことで話せなくなってしまうと考えられている。

 

僕は幼稚園に入る前からこの場面緘黙の症状があるのだが、大人になった今現在も外で両親と伯父(母の兄)以外全く話せない(父方と母方の祖母とは話せていたが、亡くなってしまった)。

 

次回以降は、僕のこれまでのことを書いていきたいと思う。